@ ヒッタイト帝国とトルコ共和国建国の父「アタチュルク」  
     
A 奇岩・洞窟・教会、驚きとミステリーの「カッパドキア」観光  
     
B シルクロードとセルジュークトルコの首都「コンヤ」  
     
C 古代の温泉リゾート「パムッカレ」とエフェス遺跡  
     
D 期待外れの「トロイ遺跡」とボスボラス海峡ディナークルーズ  
     
E 世界遺産「イスタンブール観光」(その1)  
     
F 世界遺産「イスタンブール観光」(その2)  
     
G 一般情報  
     
  旅行期間 : 2013年3月24日〜4月1日
為替レート: 1トルコリラ=52円、1ユーロ=120円、1米ドル=94円
 
     
@ ヒッタイト帝国とトルコ共和国建国の父「アタチュルク」
  JTB旅物語のツアー「ワンランク上の上質な旅、トルコ9日間」に妻と2人で参加してきた。旅行代金は1人189800円。これに燃油サーチャージ代、国内外空港税を加えて総額約24万円となった。この時期のトルコ旅行にしてはやや高い気がするが、ツアーの売りは「憧れのホテル滞在、VIPバス利用、国内空路利用」等である。イスタンブールに2泊して充実した市内観光ができるのもいい。偶然にもツアー参加者が6名と少なく、小回りの利く優雅な大名旅行となった。

3月24日、午前9時30分、中部国際空港発ソウル経由の大韓航空利用で、現地時間の午後6時半頃にトルコ・イスタンブール空港に到着する。本日のホテルは空港に近い「ワオ・イスタンブール・ホテル」(写真1)。日本からのロングフライトの後、快適なホテルのベッド(写真2)で寝れるというのは実にありがたい。さっそく部屋のバスタブに浸かり長旅の疲れをとってからベッドにもぐりこむ。

翌朝は早起きをし、朝食レストランに一番乗りをする。そして、ビュッフェカウンターからピックアップして私の朝食メニュー(写真3)を作る。どれも結構うまい。今日は午前9時イスタンブール発発アンカラ行きのトルコ航空・国内線に搭乗する。1時間のフライト中、雪を被ったトルコの山岳地帯(写真4)を越えていく。

アンカラ空港から市内中心部へは整備された道路が通っており、周囲には建築中のマンション群(写真5)も多い。まさに発展途上の若い国のようである。我々のアンカラ観光は「アナトリア文明博物館」入場からはじまる。アナトリアとはトルコのアジア部分の呼称で歴史の宝庫である。館内(写真6)にはアナトリアで産出された歴史的文化財が時代順に展示されている。

ここで少し、ヒッタイトの歴史の勉強を…
紀元前2000年頃にアナトリアに移住したインド・ヨーロッパ語系の民族は、紀元前18世紀頃に最初の統一王国である「ヒッタイト古王国」を樹立した。ヒッタイトは優れた騎馬技術と鉄器の独占により、西アジアからアナトリアまで席巻し、大帝国(ヒッタイト帝国)を築く。これは世界初の鉄器文明国家の誕生である。そして、エジプトやバビロニアと覇権を競う。そして、紀元前1275年、ヒッタイトはラムセス2世率いるエジプト軍とシリアのカデシュで戦うほど強大な帝国となった。館内にはヒッタイトとエジプトとの戦いの後、両国の間で取り交わされた条約文書(楔形文字で記された焼成粘土製)が残っている。

ヒッタイト帝国の代表的芸術として石に刻まれたレリーフ(浮き彫り)がある。館内の一部に浮き彫りの「戦車」(写真7)が展示されてあり見事である。レリーフの高さは175pあり、紀元前8世紀後半(新ヒッタイト王国)の作という。レリーフでは体は正面を向いているのに、頭や足は横向きになっている。これもヒッタイト様式の特徴である。

館内の展示品の中では紀元前19世紀(アッシリア植民時代)の作と言われる「封筒入り粘土板文書」(写真8)が印象深い。また、「牝牛形リュトン」(写真9)は高さ90pの土器で紀元前16世紀のもの。リュトン(rhyton)とは古代の器の一種で、角杯(かくはい)ともいう。黄金の耳飾り(写真10)等、精巧な黄金の装飾品も多数展示されている。古代エジプトと双璧をなすヒッタイト帝国の重要性を反省を込めて認識する。

アナトリア文明博物館はアンカラ城の麓にある。博物館で歴史の勉強をした後、アンカラ城塞の外観を遠くから見る。私の目に焼き付いたのはアンカラ城の対岸に密集する古い住宅群(写真11)である。いかにも朽ち果てた印象の家々であるが、人が住んでいるのであろう…。郊外の新築マンション群との対比がすごい。

次に、トルコ共和国建国の父、ケマル・パシャ(アタチュルク)を奉った「アタチュルク廟」(写真12)に行く。アタチュルクとはトルコの父という意味である。残念ながら遠くからの写真撮影のみ。

ここで少し近代トルコの歴史を…
長らく続いたオスマントルコ帝国は第1次世界大戦で敗北し、戦後イギリス等戦勝国側の分割統治の危機に直面した。オスマントルコ帝国最後のスルタン(皇帝)メフメット6世にはもはや抵抗する実力も気力もなかった。そこに登場したのが一介の愛国青年「ケマル・パシャ」である。ケマル・パシャはトルコ国民にスルタンへの忠誠と本土防衛を呼びかけ、連合国側への抵抗運動を続ける。そして、イズミールでのギリシャ軍との戦いやスルタンの裏切りを乗り越え、天才的な外交戦術を使って、遂に、1923年トルコ共和国を建国、初代大統領に就任する。

トルコの近代化を推進するに当たって、アタチュルクは日本の明治天皇を師と仰ぎ、明治維新を模範としたという。日露戦争における日本の勝利にトルコ国民は驚喜し、現在でもトルコの人々の多くは日露戦争の英雄「乃木希典」や「東郷平八郎」の名前を良く知っているという。また、アタチュルクのトルコ近代化改革が凄い。イスラム教徒の国ながら、「世俗主義」、「革新主義」を打ち出し、宗教裁判の禁止、一夫多妻制の廃止、服装改革、太陽歴の採用、アラビア文字の廃止、メートル法の採用、女性の参政権承認(日本より10年早い)等、である。これらの改革はイスラム教徒が圧倒的多数を占める国家では前例のない画期的なもので、その後のトルコの社会、文化に計り知れない影響を与えた。

ランチの後は、本ツアーの売りの1つ、「VIPバス」(写真13)に乗車して、アンカラからカッパドキアまでの長いドライブをする。大型VIPバス1台を6名で自由自在に使う。これぞ前例のない大名旅行である。

アンカラ郊外には新築マンション(写真14)が延々と続いている。他の小都市でも続々とマンションが建設されており、想像以上にトルコの国力はありそうである。ちなみにトルコの2011年の名目GDPは7743億ドルで世界18位である。韓国が1兆1162億ドルで世界15位なので、トルコはいずれ韓国に迫る。
参考:世界の名目GDPランキング(USドル)
http://ecodb.net/ranking/imf_ngdpd.html

アンカラから5時間くらいかけてようやく世界遺産「カッパドキア」(写真15)に到着する。残念ながら天気が悪く夕闇も迫る。ギヨレメ・パノラマから尖った砦の意味の「ウチヒサル」(写真16)を遠望する。今夜のホテルはこのウチヒサル最上位にある洞窟ホテル『カッパドキア・ケーブ・リゾート・アンド・スパ』である。

やっとホテルに到着する。さて、初体験の洞窟ホテルとは?期待と少しの"失望"を予期しながら客室(写真17)に入る。天井は半円形でまさにドーム客室、室内は綺麗で広さもある。奥の扉を開けると驚くほど広いバスルーム(写真18)になっている。早速、バスタブにお湯をはり湯船に浸かる。熱い湯が勢いよく出てきて不満はない。バスアメニティも全部揃っている。シャワーブース(写真19)が別にありここで最後の仕上げをする。

部屋で休憩した後はホテルのレストラン(写真20)に夕食をとりに行く。「ツアー客6名+日本人添乗員」の楽しいディナーがはじまる。最初に「サラダ盛り合わせ」(写真21)。数種類のソース類?にからめて食べる。Good。次の「チーズの春巻き」は抜群にうまい。メイン肉料理「牛肉と羊肉のケバブ」(写真22)は量が少なく繊細でいい。デザートは「フルン・スュトラッチ」というプリンでこれもうまい。.出された料理はすべておいしく会話も盛り上がり大変満足したディナーであった。

広いバルコニーからライトアップされた我々の客室(写真23)を見る。このホテルに2泊できると思うと嬉しくなる。やはり高級ホテル滞在は気分がいい。ただし、洞窟ホテルは保温が良すぎるので、床暖房を切り、冷たい外気を入れ、さらに、エアコンをつけて室温を下げてからベッドに入る。これで快適に眠れる。

 
     
A 奇岩・洞窟・教会、驚きとミステリーの「カッパドキア」観光
  朝早くからギヨレメの谷のあちこちからカッパドキア名物「バルーン」が上がりはじめる。エジプト・ルクソールのバルーン事故も無関係に、おびただしい数のバルーン(写真24)がカッパドキアの空に舞い上がる。我々夫婦以外のツアー客4名もバルーン上である。彼らの勇気と冒険心に拍手!

我々夫婦は早朝出発のバルーンツアーには参加せず、ホテルでひときわ優雅な朝食(写真25)にする。レストランの窓側の席からは空に舞うバルーンが見える。ビュッフェ・カウンターから好きな料理を選んで私の朝食メニュー(写真26)を作る。気分がいいのか、素材が良いのか、シンプルな朝食であるがどれも美味しい。「蜂蜜の巣」(写真27)がそのまま提供されているのに驚く。やや堅めの巣を取り分けて焼きたてのパンに塗って食べてみる。これが抜群にうまい。妻とお喋りしながら(ツアーではあり得ないほど)ゆったりとした朝食タイムを過ごす。朝食後はホテル内を散歩する。我々の客室のすぐ下にガーデンプール(写真28)があり、夏場であればギヨレメの奇岩地帯(写真29)を見下ろしながら水泳が楽しめる。

今日は世界遺産「カッパドキア」を1日かけて観光する。カッパドキアは中央アナトリア高原に広がる大奇岩地帯で、多数のキノコ状の岩をはじめ、不思議な景色が広がる。さらに、奇岩の中には多数の洞窟があり、膨大なキリスト教壁画まで残っている。数万人もの人が暮らした地下都市もミステリーである。

カッパドキア最初の訪問地は「パシャバー」(写真30)である。「妖精の煙突」との愛称を持つキノコ状の奇岩が林立している。それぞれの妖精に個性があり、しかも、その1つ1つが予想以上に大きい。周囲の人間と比較すると分かるが高さは20〜30mはありそうである。

次にパシャバーから近い「ゼルヴェ野外博物館」(写真31)に入場する。散策路を進むにつれて奇岩・巨岩の中に無数の穴が見えてくる。深い渓谷の壁面に掘られた無数の穴(写真32)は、多数のキリスト教徒達が、紀元4世紀頃から20世紀のはじめまで隠棲生活を続けてきた住居や教会の跡である。何と30年ほど前まで村人がここに住んでいたという。

次に、ユニークな形の「ラクダ岩」(写真33)を訪れる。自然の芸術!さらに場所を変えて「3人姉妹の岩」(写真34)を見学する。まさに巨大な"しめじ"である。しめじの中は洞窟になっている。ここからは遠くに雪を頂いたエルジェス山(写真35)が見える。今から数100万年前にエルジェス山とハサン山が噴火し、カッパドキアに火山灰や溶岩が数100mも積み上がり、その後の長い浸食により今日の奇岩・巨岩が出現したという。

駆け足であるがカッパドキア最大の観光地「ギヨレメ野外博物館」(写真36)に入場する。眼前には迫力に満ちた巨岩・奇岩が広がり、そのどれにも穴(写真37)があいている。ギヨレメもゼルヴェと同じく早い時期からキリスト教徒が移り住み隠棲生活を送っていた場所である。「ギヨレメ」とは「見てはならないもの」という意味らしい。ギヨレメ谷には30以上の岩窟教会があり、保存状態のよい教会では色鮮やかなフレスコ画(写真38)を見ることができる。教会の壁画は12〜13世紀にかけて描かれたという。

ここで少しキリスト教の歴史の勉強を……
パレスチナで新しい宗教「キリスト教」を興したイエスは、ローマに背いて新しい国家を造ろうとした罪で十字架にかけられ処刑されてしまう。イエスの弟子達はパレスチナを逃れ各地にその教えを広めていく。パレスチナから近いトルコ(アナトリア)各地ではキリストの弟子達によって急速にキリスト教が広まっていく。

一方、ローマ帝国は3世紀後半から4世紀初頭にかけてキリスト教の大弾圧を行う。よって、初期キリスト教時代には熱心な信徒は(ローマ帝国にばれぬよう)谷間や洞窟など人目に付かない場所に教会を建て、信仰に埋没した暮しをした。

ところが、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝は、313年、キリスト教を公認する。その後、アナトリアを支配したセルジューク・トルコも、オスマン・トルコもキリスト教には寛容であった。隠れる必要もないキリスト教徒達は、その後なぜ長らく洞穴に住み続けたのか?それは私が泊まった洞窟ホテルに秘密の鍵があった。実際に洞窟ホテルに泊まってみると冬でも実に暖かくその保温効果に驚く。恐らく岩の断熱効果により「夏涼しく、冬暖かい」のであろう。過酷な自然環境の中央アナトリアの人々にとって洞窟は実に住みやすい。人類の祖先が動物と同じく穴倉で生活したのには合理的理由があった。これは私にとって新発見であった。

洞窟レストランでのランチの後、絨毯の店に行く。私は買い物には全く興味はないが結構勉強になった。まずは、蚕の繭(マユ)から絹糸をほぐす実演(写真39)を見学する。数十本のマユ糸から1本の絹糸に仕上がっていく様子は新鮮な驚きであった。その隣の大広間では織子さん達(写真40)が手作業で絨毯を織り上げていく。手が細くて器用な織り子さんは細かな作品を仕上げるという。よって、絨毯の値段は大きさに比例しない。

別の大広間でコーヒー、チャイ(紅茶)、ジュース等をサービスしてもらって、日本語で絨毯説明(写真41)を聞く。絹の絨毯は触り心地満点で見る方向によって色が変わる。まさに芸術品である。また、いい品は織り子さんが何年もかけて1枚の絨毯を織るという。そして、最後に「買わんかね?」とくる。

次に場所を移動して「カイマルクの地下都市」に行く。地下都市入り口までドーム屋根の土産物売り場(写真42)が軒を連ねている。カイマルクの地下都市はまさに蟻の巣のように細い迷路(写真43)が地下に延びている。そして通路の先に大小様々な「部屋」(写真44)が設けられている。その用途は寝室は当然ながら台所、食堂、貯蔵庫(ワインセラーを含む)、集会場、さらに、学校や教会、墓地まであるという。

現在カッパドキア地方には36カ所の地下都市が確認されており、デリンクユでは4万人、カイマルクでは2万人が暮らしていたという。デリンクユの地下都市は地下8階建てである。ローマ帝国によるキリスト教大弾圧の時代にはこの地下都市群はキリスト教徒の絶好の隠れ家になったに違いない。

本日の最後は「ローズバレー」(写真45)に入場してシャンペンを飲みながら夕陽を鑑賞する。さすが「ワンランク上の〜」らしく最高に贅沢な企画だと思った。しかし、ローズバレーの展望台には洒落たレストラン・カフェはまるでなく、屋台の土産物屋のみ。日本人添乗員がホテルから借りてきたグラスにシャンパン(写真46)を注ぎ、曇って見えない夕陽に向かって"乾杯"となった。添乗員さんの努力に乾杯!

予想より早く、夕方5時過ぎにはホテル『カッパドキア・ケイブ・リゾート』に帰ってくる。ホテルロビーからエレベータで1階下りると、秘密の地下トンネル(写真47)があり、我々の客室棟に行ける。さすが、カッパドキア最高級のホテルだけあって、館内の演出が素晴らしい。

夕食まで3時間くらい時間があるので、ホテルのスパハウスを訪れ、スタッフに案内してもらって施設見学をする。洞窟内にはマッサージルーム(写真48)が沢山あり、しかも全部部屋の種類が違う。よって、見学だけでも楽しい。スパの案内嬢は綺麗な英語を話し施設内容を熱心に説明してくれる。分かったふりをして適当に聞き流す。トルコ風スチームサウナ(写真49)も雰囲気がいい。マッサージで体をほぐしてもらって、ここで、汗を流し、最後に洞窟温水プール(写真50)で泳げば、最高のホテル滞在となる。しかし、マッサージは高いので、私は「ドライサウナとプール」のみ利用した。これでも40ユーロ(4800円)の料金がかかる。少々高いがプールを独り占めにしてカッパドキアの夕暮れを楽しむ。

午後8時、ツアー一同バスに乗って、本日の夕食会場に行く。今夜は雰囲気あふれる洞窟レストランでの「ベリーダンス・ディナーショー」である。各テーブルにオードブル多数が既に配膳されており、ビール・ワイン・ジュースで乾杯し宴がはじまる。メインはマトン料理(写真51)で、アルコールを含めて飲み放題となっている。

食事の途中からダンスがはじまり、トルコの民族舞踊(写真52)が多数繰り広げられる。しかし、大音響で音楽が鳴らされてうるさい。しかし、本日のハイライト「ベリーダンス」の主役(写真53)が実に魅力的で可愛いい。私は嬉しくなって最前列に陣取って写真を取りまくる。美しくも妖艶な彼女のベリーダンスに酔いしれる。Wonderful!食事はともかく、ベリーダンス・ディナーショーは結構楽しめた。

夜遅く、ホテルに帰ってくると、ライトアップされた「カッパドキア・ケイブ・リゾート」(写真54)が闇夜に浮かぶ。2泊では惜しい。「できればここに1週間くらいロングステイしたい…」と、私はすぐに盛り上がる。

 
     
B シルクロードとセルジュークトルコの首都「コンヤ」
  今日はロングドライブである。カッパドキアからシルクロード添いの道を3時間かけて「コンヤ」(セルジュークトルコの首都)へ行き、さらに5時間半かけてパムッカレまで行く。ここで少人数VIPバスの威力が発揮される。

名残惜しくもホテル「カッパドキア・ケイブ・リゾート」を後にし、我々のバスはセルジュークトルコの首都「コンヤ」に向かう。車窓には荒涼たる丘陵やら平原が続く。地表には小石が多くほとんど緑がない。不毛の大地のようである。が、驚くべきことに車窓から見える小さな道(写真55)は本物の"シルクロード"だという。ワオー、俄然興味が湧く。

バスは巨大な城壁前の駐車場で停車する。この建物は「キャラバン・サライ」即ち「隊商宿」(写真56)である。シルクロードを往来する商人達にとって敵は過酷な自然ばかりではない。各所で出没する山賊、夜盗の群れから自らの命と積み荷を守らねばならない。よって、堅固な防壁に囲まれたキャラバン・サライは隊商達にとっては安全を保証してくれるオアシスとなった。

トイレ休憩の後、バスの車窓は大草原地帯に変化し、羊の群(写真57)が出現する。お昼の12時頃、コンヤに近い「キャラバン・サライ」(写真58)に到着する。ここはキャラバン・サライを改装したレストランである。キャラバン・サライの内部(写真59)は極めてシンプルで、アーチ形の頑丈そうな石造りの仕切と天井の他は(テーブルを取り除けば)何もない。隊商達一行は駱駝(ラクダ)も人も同じ屋根の下で休んだらしい。

石の屋根は強烈な太陽をさえぎり、周囲の石壁は盗賊の侵入を阻止する。隊商達はひんやりとした石の床に寝ころんで束の間の休息を取ったのであろう。我々もシルクロードの隊商達の古(いにしえ)をしのんで昼食をとることにする。

本日のランチはスープ、トルコ風ピザ(写真60)、メイン料理は「チキンと野菜の炒め物」(写真61)で各自取り分けて食べる。やや味が濃いが、パンと一緒に食べれば問題ない。デザートはチョコレートケーキでイマイチの味である。

ランチの後、コンヤを代表する建築美と称される「インジェ・ミナーレ博物館」(写真62)に行く。1265〜67年の建造。外観の写真撮影のみで入場しない。正面を埋め尽くすアラビア文字や幾何学文様の浮き彫りが見えるが、私にとってはあまりインパクトなし。

次に「メヴラーナ博物館」(写真63)に入場する。ここにはセルジュークトルコ全盛の13世紀、イスラム教・神秘主義派の神学者・メヴラーナが創設した「メヴラーナ教」ゆかりの品々が展示されている。メヴラーナ教とは「旋舞教」とも言われ、イスラム教流の「踊る宗教」らしい。残念ながら霊廟内部は写真撮影禁止である。

中庭に面した別棟(写真64)には修行僧の生活を模した人形が展示されている。リアルな人形達(写真65)ばかりで当時の生活が垣間見られ興味深い。

セマー(旋舞)は白衣にトルコ帽(写真66)をかぶって踊る。旋舞において帽子は「墓石」を、白衣は「墓」を象徴するらしい。修行僧や信者達は独特の音楽(写真67)が流れるなか、自らをコマのようにクルクルと急速旋回させる。そして、次第に無我の境地に陥り、遂には神(アラー)との一体感を得るに至る、という。メヴラーナ教はセルジュークトルコ時代には支配層から支持を得、オスマントルコ時代には歴代スルタン(皇帝)の厚い庇護の下、大きく発展していく。単なる踊る宗教ではなかった。20世紀に至り同教団は現トルコ共和国の父アタチュルクによって解散させられた。

午後2時、コンヤを出発したバスは西へ向かい、トルコの大地を延々と駆け抜ける。VIPバス(写真68)なので疲れたらリクライニングをして休めばいい。バスは山岳地帯(写真69)を越えていく。車窓の風景と共に座席を右に左に移動して写真を撮る。

夜になってようやくパムッカレのホテル「リッチモンド・パムッカレ・サーマル・ホテル」(写真70:朝の撮影)に到着する。ホテルの外観も客室(写真71)も普通で、ワンランク上のホテルではないようだ。さらに、今夜の夕食は大食堂でのビュッフェときた。ここは団体客専用の巨大ホテルのようである。幸いビュッフェの種類は多く、味も良いので救われた。私の夕食メニュー(写真72)を作り、ゆっくり味わって食べる。トルコの料理は結構うまくて私の好みにあう。

パムッカレは古代からの温泉保養地である。このホテルには室内温泉プール(写真73)があり無料で泳げる。ホテルの敷地内にも広いガーデンプール(写真74)があり、遠くに夜景が見える。ひょっとしたら、パムッカレでは結構いいホテルかもしれない。疲れていたので、部屋のバスタブに浸かり、早めに寝る。

 
     
C 古代の温泉リゾート「パムッカレ」とエフェス遺跡
  今日は午前中に世界遺産になっているパムッカレの石灰棚と周囲のヒエラポリスを観光する。我々はヒエラポリスの南ビザンツ門(写真75)から入る。ヒエラポリスはローマ帝国がこの地に侵入してくる前の紀元前2世紀頃、ペルガモン王国の手で街造りが進められた古代遺跡である。ヒエラポリスはローマ帝国支配下にも順調に発展し、その繁栄は12世紀まで続いたという。その遺跡群は、劇場(写真76)、神殿、市場、浴場、住居、墓地等、誠に広大である。

パムッカレは古代の昔より温泉保養地として知られ、ローマ帝国治下にはネロ帝やカラカラ帝をはじめ、多くのローマ皇帝達が遠路はるばるここまで温泉保養に訪れたという。あのクレオパトラもアントニウスと共にここにやって来たという。現在、ヒエラポリス博物館になっている南大浴場(写真77)を見ればその壮大さが分かる。現代流に言えばパムッカレは「世界的温泉リゾート」であった。

我々の観光目的は石灰棚(写真78)である。南大浴場のすぐ前の斜面が石灰棚になっており大勢の観光客が(足湯して)遊んでいる。パムッカレという地名は「綿の城」を意味するらしいが、一目瞭然である。パムッカレの石灰棚は世界自然遺産に登録されている。

石灰棚(写真79)は台地上部から流れ出る石灰成分を含む湯が、長い年月を経て結晶し、台地全体を白く覆ったものである。湯は温かく寒い冬場は足湯にちょうどいい。暖かい時期、ここを露天風呂にして湯に浸かれば最高に気持ちいいのでは?ここからの眺め(写真80)は素晴らしい。大平原の彼方に雪を被った山々が見える。ローマ帝国の皇帝達はどんな気分で温泉に浸かったのであろうか?
パムッカレの石灰棚には、若い日本人女性(写真81)が多く来ており、元気な日本語が聞こえてくる。3月下旬の春休みの時期のせいか、トルコ激安ツアーのせいか?若者はどんどん遠くの石灰棚に行く。我々夫婦も若者から元気をもらって出来るだけ遠くの石灰棚まで行く。南大浴場の北側に「パムッカレ温泉」(写真82)がある。温泉プールの底に本物のローマ時代の遺跡がゴロゴロしている珍しい温泉なので、是非入ってみたい。が、全く時間がない。トイレのみ借りて急いでバスにもどる。

昼食のために「AZIZIYE」という名前の非常に大きなレストランに入る。大型バスが何台も停車する巨大レストランであるが、内装は上品でムードがある。本日のスープは「ドマテス・チョルバス」(写真83)。トマトペーストを使用し酸味の効いた濃厚なスープで、私がトルコに来て一番好きになった料理である。トルコのパンとの相性がいい。メインは「シシ・ケバブ(肉の串焼き)」(写真84)。日本の焼き鳥と同じ感じで、もう少し肉が大きいと本物のシシ・ケバブらしくなる。味は普通。デザートは「プリン」でうまい。

ランチの後、近くの革製品の店に立ち寄り、「ファッション・ショー」(写真85)を見る。そしてお決まりのように日本語による革製品の説明・販売とくる。その後、バスに乗車し、パムッカレから185km離れたエフェス遺跡まで3時間かけてロングドライブする。
午後は、世界最大級の古代都市遺跡「エフェス遺跡」を訪れる。エフェス遺跡を歩けば古代ローマ帝国の偉容が遺憾なく体験できる。しかし、エフェスには、ローマ帝国侵入以前、あのアテネの「パルテノン神殿」の3倍以上の総大理石の「アルテミス神殿」(今は完全に廃墟)があったこと、また、キリスト処刑後、聖母マリヤと聖ヨハネがこの地に逃れ、エフェスはその後キリスト教布教活動の一大拠点となっていったこと等、歴史の興味は尽きない。

我々はエフェス遺跡を南側の入口より入場する。すぐに「ヴァリウスのローマ様式の浴場跡」(写真86)が出迎えてくれる。その横に「オデオン(音楽堂)」(写真87)がある。半円形の舞台を囲むように観客席が広がっており、上方の席まで詰めれば1500席はありそうである。エフェス遺跡で発掘された「アルテミスの巨像」(写真88)は2mを越す巨像で胸部には数多くの乳房とも卵とも思える丸いもので覆われている。本物はエフェスの考古学博物館にある。

現在我々が見学している「エフェス遺跡」は主に、紀元前3世紀頃から紀元後4世紀頃まで、時代としてはヘレニズム期からローマ帝国治下キリスト教が本格普及する前までのエフェスである。ヘラクレスの門からケルスス図書館に向かう「クレテス通り」(写真89)がエフェス遺跡のメインストリートとなる。ここには三角屋根が美しい「トラヤヌスの泉」(写真90)、美しいレリーフが施された半円形アーチの「ハドリアヌスの神殿」(写真91)等、見所は多い。

そして、このクレテス通りの最後に「ケルスス図書館」(写真92)がある。威風堂々として見る者を圧倒する。これは、紀元2世紀、ローマ帝国治下にこの地を治めていたアジア州総督がその父ケルススに捧げるべく建造した図書館である。ケルスス図書館の巨大な壁を支える柱の上部(写真93)が素晴らしい。コリント式とイオニア式の混合形式。この図書館には1万2000巻の書物が所蔵されていたという。正面には「知恵、運命、学問、美徳」の4つの意味を象徴する女性像(写真94)がある。2mはある見事な彫像で、我々を見下ろしている。「皆さん、勉強しなさい。知恵と美徳を持ちなさい。そして運命に従いなさい。…」

ケルスス図書館と双璧をなすものが「大劇場」(写真95)であろう。ここでは演劇が上演され、また、全市民参加の民会の会場ともなった。大観客席は直径154m、高さ38mの半円形で、収容人数は2万4000人という。大劇場から真っ直ぐに延びる道「アルカディアン通り」(写真96)は、この先エーゲ海まで続く。この道をクレオパトラとアントニウスは馬車に乗ってやって来たという。古代史へのロマンが膨らむ。

今夜の泊まりはエーゲ海に面するリゾート都市「アイワルク」で、エフェスから約4時間(240km)のロングドライブをする。車窓から見ると、オリーブをはじめ様々な果樹(写真97)が植えられている。しかも、数時間ドライブしても道路沿いには広大な果樹園(写真98)が延々と続く。どうりでドライフルーツがふんだんにある訳である。トルコは大農業国であることを実感する。参考までに、トルコの食料自給率は200%という。

夕方、エーゲ海のリゾート地「アイワルク」に到着する。アイワルクの町から長い橋が小さな島に通じており、我々のホテルはその島にある。今夜のホテルは「ハリッチ・パーク」(写真99)で、旅行パンフレットには「海の見える客室をご用意」とある。大いに期待して客室(写真100)に入ったが、全体的に古い感じがする。確かにバルコニーから海が見えるが、サンセット方向ではなく、これも期待外れである。急いでビーチに行き、桟橋上から夕陽(写真101)を撮す。目の前はエーゲ海というより巨大な湖の雰囲気である。

このホテルも団体客用の大型リゾートホテルのようである。夕食はレストランでのビュッフェで、料理の味(写真102)は悪くはないので不満はない。部屋のバルコニーから暮れゆくエーゲ海(写真103)を眺める。明日はいよいよ「イスタンブール」だ。トルコ旅行も終盤になってきた。

 
     
D 期待外れの「トロイ遺跡」とボスボラス海峡ディナークルーズ
  古代ギリシャの英雄叙事詩ホメロスの「イーリアス」を信じたシュリーマンは私財を投げ売って「トロイ遺跡」を発掘する。この余りに有名な話のために、一度は見てみたいトロイ遺跡なのであるが……?

世界遺産「トロイ遺跡」は観光地としては期待と現実との差(失望)が大きい。それ故にかトロイ遺跡には観光客も少なくひっそりとしている。しかも、伝説にちなんで復元された「トロイの木馬」(写真104)が何と修復のため完全にシートで覆われている。旅行会社から事前に知らされていたが、誠に残念である。

さて、トロイ遺跡(写真105)に立つ。ここには紀元前3000年〜紀元前350年くらいまでの遺跡が幾層にも積み重なっているという。当時、ここには大きな城壁(写真106:現地案内板より)があったらしい。ギリシャの地図を見ると、エーゲ海を挟んでギリシャとトルコが対面しているのが分かる。古代よりお互いに覇権を競っていたのであろう。目の前には堀のような跡(写真107)があるが、この先はエーゲ海だったという。

ここで少しトロイ戦争の歴史を…
トロイ戦争はトロイの王子パリスがギリシャのスパルタ王メネラオスの妃である絶世の美女ヘレネを奪ったことに始まる。頭にきたメネラオスは兄アガメムノンを大将にギリシャ軍を組み、トロイへの攻撃を始める。しかし、10年もの長い戦争でギリシャ軍の劣勢は続く。難攻不落のトロイを破るために、ギリシャ軍はある"秘策"を考える。ギリシャ軍は戦いをあきらめたように見せかけ、「ただ1人の生け贄と巨大な木馬」を神に捧げる形で残して船で全員が引き上げてしまう。勝ったと思ったトロイ軍は木馬を城内に引き入れ勝利の大宴会を始めた。しかし、木馬内に隠れていたギリシャ兵は城に火を放ち、引き返してきたギリシャ軍と共にトロイを陥落させる。そして、奪われたヘレネは再びメネラオスのもとに戻りトロイ戦争は終わる。

このホメロスの叙事詩『イーリアス』が単なる伝説ではなく史実であると固く信じていたのがドイツ人シュリーマンである。彼は41歳で実業家を引退しトロイ遺跡の発掘を開始する。そして、長年の夢であったヒサルルクの丘を発見し、第2市をトロイと断定する。彼はここの第2市の遺跡から「プリアモス(トロイ最後の王)の財宝」も発掘した。古代史へのロマンを誘う見事な話である。トロイの城壁の跡(写真108)とその復元図(写真109:現地案内板より)、円形劇場(写真110)を見学してトロイ遺跡を後にする。

我々は「チャナッカレ」からフェリーに乗って「ダーダネルス海峡」(写真111)を渡る。船上で、日本人大好きという熟年夫妻と知り合った。地元チャナッカレ在住の大学教授夫妻で奥さんは衛星放送で毎日日本の番組(NHK海外版)を見ているという。

彼から聞いたことによれば、トルコの小・中学校教員の初任給は700〜800ユーロ(月収)くらい、大学教授の彼でも2000ユーロ(月収)という。1ユーロ120円で換算すると彼の月収は24万円となる。ギリシャの方が賃金が高いという。トルコは終身雇用制で彼の身分は保証されているが(貯金が少ないらしく)彼は日本の年金制度をさかんに聞いてきた。トルコはインフレが激しくイスタンブールの物価は高い。彼は老後が心配なのか?もう少し話を聞きたかったが30分くらいで、ヨーロッパ側(写真112)に到着する。

午後1時前に大きなドライブインに入り、ランチとなる。ランチの後は、イスタンブールまで延々とドライブする。そして、イスタンブール近郊から車の大渋滞がはじまる。夕方、やっとイスタンブールに着いてみると冷たい雨が降っている。これにはがっかり…。

今夜はボスボラス海峡"貸切船"ディナークルーズである。6名のツアーに貸切クルーズとは?小舟か?ところが、驚くことにやって来たのは大型クルーズ船(写真113)だった。ワオー、凄〜い!!!!!!この船を6名で貸切ってディナークルーズをする。皆さん大喜びである。私も船内(写真114)を走り回って写真を撮る。

前菜は既にテーブル(写真115)にセットしてあり、ビール、ワイン、ジュースで乾杯する。クルーズ船はドルマバフチェ宮殿近くの埠頭から出港する。前菜盛り合わせは結構うまく、パンとの相性がいい。ボスボラス海峡は南のマルマラ海と北の黒海とを結ぶ全長約30Kmの海峡である。

夕暮れの中、川岸には美しい建物(写真116)が次々に見えてくる。北に向かって左手はヨーロッパ側、右手はアジア側で、イスタンブールはヨーロッパとアジアを2つに分かつ分岐点でもある。食事をしながら、綺麗な建物(写真117)が見えるにつれて席を移動して写真を撮りに行く。

本日のメイン料理は「ウズガラ・キョフテ」(写真118)。小さめの肉のハンバーグで非常にうまい。クルーズ船は「ファーティフ・スルタン・メフメット大橋(第2ボスボラス大橋)」(写真119)の手前でUターンする。全長1510mに及ぶこの巨大なつり橋は、日本の高い技術と多くの日本人技術者が参加し、建設資金も円借款で行われたという。日本とトルコの友好のかけ橋。(1988年完成)

クルーズ船が「ボスボラス大橋」(写真120)にもどってくる頃には夜になっていた。日本とトルコの友好関係は現在も続く。2004年5月24日着工、2013年開通予定で、日本の大成建設グループなどにより総延長13.56km(そのうち海峡下の長さ1387m)の鉄道用海底トンネル(マルマライ計画)の建設が進められている。

夜の闇に美しく浮かぶ「ドルマバフチェ宮殿」(写真121)。そして、ドルマバフチェ宮殿のすぐ横に「ドルマバフチェ・モスク」(写真122)が妖しく闇夜に浮かび上がる。美しすぎる……。ドルマバフチェ宮殿の「時計塔」(写真123)も闇夜に白く浮かび上がっている。さすがイスタンブール、これは期待できそうだ。

今夜の泊まりはドルマバフチェ宮殿に近い「リッツ・カールトン・ホテル・イスタンブール」である。ホテル内(写真124)は豪華で宮殿の雰囲気を出している。客室(写真125)は広くて落ち着きがあり、エスプレッソのコーヒーメーカー(写真126)もある。バスルーム(写真127)が非常に広くて「さすが、リッツカールトン」と思わせる充実ぶりである。洗面台(写真128)の周囲もピカピカに磨かれている。

さて、明日の朝の出発は午前9時と遅いので、今夜は少し夜更かしして高級ホテルを楽しむことにする。まずは室内温水プール(写真129)で軽く泳ぎ、バスローブに身を包んでプールサイドのラウンジチェアー(写真130)に横たわる。これぞ天国!少し休憩してから、もう一度プールに入り軽く泳ぐ。

お次はサウナに行く。「スチィームサウナ」と「ドライサウナ」があり、両方とも体験してみる。サウナの後、スパ内のジャグジーで体をほぐす。その後、リラクゼーション・ルーム(写真131)で冷たいハーブティーを飲みながら心と体を癒す。これぞ、高級ホテルの醍醐味だ。マッサージ等、特別なサービスを受けなければスパ施設の利用は無料である。最後は、ドレッシングルームで男を磨いて(?)、さっそうと客室に帰る。早めに帰った妻は言う。「遅かったわね。今まで何してたのよ…」

 
     
E 世界遺産「イスタンブール観光」(その1)
  イスタンブールの朝、既に太陽がボスボラス海峡の方向から昇っている。もう部屋でじっとしておれず妻と早朝の散歩をする。ホテルの外から見上げると「リッツ・カールトン・イスタンブール」(写真132)が朝日に輝いている。今日は天気が良く最高のイスタンブール観光になりそうである。

軽い散歩の後、早めにホテルのレストラン(写真133)に入る。レストラン内は落ち着いた中にも華やかさがあり非常にいい雰囲気である。ビュッフェカウンターから好きなものをピックアップして私の朝食メニュー(写真134)を作る。どれもうまくパーフェクトな朝食である。

朝9時、ホテルを出発し、最初に「グランドバザール」へ行く。イスタンブールのグランドバザール(写真135)は中東一の規模を誇るという。立派なドーム型屋根に支えられたメイン通路から小さな路地が無数に枝分かれしていく。広すぎて迷子になるのでルートをしっかり確認して歩く。小さな路地(写真136)には間口の狭い店がひしめきあっており、その数は約4000軒とも言われる。

さて、限られた観光時間の中で何を買うか?取りあえず、食べるお土産類(ロクム、ドライフルーツ等)を物色する。我々が行くとあちこちから日本語で呼び込みがかかる。買い物や交渉が好きな人にとってはここは面白い場所だと思う。1日遊べる。

グランドバザールから「ブルーモスク」(写真137)は近い。今日は3月30日(土)。トルコの春で、イスタンブールは暑くも寒くもないちょうどいい気候である。ブルーモスク入場の長い列(写真138)に並ぶ。ブルーモスクの正式名称は「スルタンアフメット・ジャーミィ」で、アフメット1世の命を受け1616年に建造された。スルタンは皇帝、ジャーミィは寺院、ミナーレ(又はミナレット)は尖塔という意味。長い待ち時間の後、やっとモスク内部に入る。
広々としたフロアから天井を見上げるといかにも高い。モスク内部は壮大で荘厳な空間を創り出しており、何だかゾクゾクしてくる。このモスクの「大ドーム」(写真139)は高さ43m、直径27.5mあり、大ドームの周囲に4つの副ドーム、さらに30の小ドームがある。ドームには260もの小窓がありステンドグラスから差し込む光が館内を厳かに照らす。それら巨大な天井ドーム群を支える円柱(写真140)がまた凄い。内壁を飾るイズニックタイルが全体的に淡いブルーに輝き、それ故「ブルーモスク」と愛称される。なぜ、オスマントルコは、こんなに凄いモスクを17世紀に建てれたのか?

ここで少しオスマントルコの歴史を…
オスマントルコは16世紀のシュレイマン大帝の時代に最盛期を迎え、その領土は西アジアから北アフリカ、さらに東欧諸国まで広がった。オスマントルコは16世紀から17世紀にかけて、神聖ローマ帝国の居城「ウイーン」を陥落させようと2度もウイーンを包囲した。中央ヨーロッパ諸国連合対オスマントルコ帝国の戦いはオスマンの敗北で終わるが、オスマントルコによるウイーン包囲戦はヨーロッパ・キリスト教世界の人々を恐怖におとしめたという。今でもヨーロッパ諸国の人々はトルコが嫌いらしい。それはトルコがイスラム教国というばかりでなく、超大国「トルコ」への恐怖が潜在意識の中にあるのでは?と、つい私は思ってしまう。どこの国でも隣の強国は嫌いである。

ブルーモスクの隣り、緑の美しいスルタナメット公園を間にして「アヤソフィア」(写真141)が聳える。アヤソフィアの歴史はブルーモスクよりはるかに古い。アヤソフィアの建設は紀元4世紀、ローマ帝国の首都を「コンスタンチノープル」に移したコンスタンチヌス1世にはじまる。その後、幾多変遷を経て、紀元6世紀にユスチニアヌス帝によって完成する。

歴史の重みを感じつつ、外廊から内廊、さらに内陣に入ると…。そこに現れた巨大空間(写真142)に私は圧倒され、再び体がゾクゾクしてきた。これは凄い。ドーム天井や周囲の壁に設けられた、沢山のアーチ形小窓から光が差し込み、金色の壁面が輝く。

見上げる中央ドームの高さは56m、直径は31m、ブルーモスクよりさらに大きい。ユスチニアヌス帝は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の威信をかけて当時の最高技術を使い、最大級の建造物を造ったという。見上げると小ドームの壁に綺麗な壁画(写真143)が見える。これこそ、オスマン朝時代に塗りつぶされた「聖母子像」である。
1453年、コンスタンチノープルがオスマントルコによって陥落し、ビザンチン帝国が滅亡すると、当時のスルタン、メフメット2世の命により、聖堂はイスラムの寺院「モスク」に変えられた。その後、アヤソフィアのモザイク画は、16世紀、イスラム教国家のオスマントルコ帝国の治下、全て漆喰で塗りつぶされ、覆い隠されてしまった。

400年近くも漆喰の下で眠っていたモザイク画は、(新生トルコ共和国のケマル・アタチュルクの許可により)1931年、アメリカ人の調査隊により、壁の中から発見された。それがドーム天井に描かれた「聖母子像」(写真144)であり、「洗礼者ヨハネと聖母マリアに囲まれたイエス」(写真145)その他、世界に名高い「アヤソフィアのモザイク画」である。

アヤソフィアの横を走る電車道路を渡って次なる観光地に行く。何の変哲もない狭い階段を下りていくと、そこは地下の大貯水池になっていた。そこには薄暗くライトアップされた不気味な地下空間が出現する。ここは「地下宮殿」(写真146)と呼ばれ、その規模は「縦140m、横70m、高さ8m」ほどあり、内部はコリント様式の柱で支えられた宮殿風である。4世紀から6世紀にかけてコンスタンチヌス帝からユスチニアヌス帝の時代に造られたものという。

地下宮殿の一番奥の柱には「メドゥーサの顔」(写真147)が台座として使われている。「メドゥーサ」はギリシャ神話に出てくる怪物で、宝石のように輝く目を持ち、頭髪は無数の毒蛇で、イノシシの歯、青銅の手、黄金の翼を持つという。台座に使われたメドゥーサの顔は2体あり、横向きと逆さ向きがある。古代多神教時代の各地の遺跡大理石が無造作に流用されたようである。「メドゥーサ」は見たものを石に変える能力を持つと言われるが、自ら巨大な石になって踏みつけられているメドゥーサが何だか哀れに感じる。

お昼過ぎまで旧市街の重要観光地を見て回り、ランチのためにバスで新市街に行く。昼食後は歩いて「タクスィム広場」に行く。ここは新市街の中心となる広場で、中央に「共和制記念塔」(写真148)が建つ。タクスィム広場から「イスティクラール通り」(写真149)をそぞろ歩きをする。土曜日の午後のせいか、もの凄い混みようである。活気と雑踏に満ちあふれた人種の坩堝(ルツボ)を歩く。

イスティクラール通りの中央には路面電車(トラム)が走り、沿道にはブティック、宝石店、レストラン、等が建ち並ぶ。ドネル・ケバブの実演(写真150)を見る。路上にはストリートパフォーマー(写真151)が何やら演奏している。ショップを見ながら、ストリートパフォーマーの演奏に耳を傾けながら、通りを下っていく。団体ツアーにしては珍しい「個人旅行」の感覚を味わう。農業大国だけあって、フルーツ(写真152)もふんだんにあり、注文に応じてその場で「絞りたてジュース」が飲める。

イスティクラール通りを下りきった先に「ガラタ塔」(写真153)がある。入場の長い列に並んで、エレベーターで最上階まで行く。さらに、らせん階段を上がると…。屋上テラスからはイスタンブールの街を360度見渡すことができる。新市街からボスボラス海峡方面(写真154)を見る。海峡の対岸は「アジア大陸」、こちらは「ヨーロッパ大陸」、そして、ボスボラス大橋は両大陸のかけ橋である。金角湾にかかるガラタ橋から旧市街方面(写真155)を見る。ブルーモスク、アヤソフィア、トプカプ宮殿、等、イスタンブールの歴史が凝縮された地区である。

ガラタ塔から下り、今度は金角湾に架かる「ガラタ橋」(写真156)を歩いて渡る。ここも凄い人混みである。橋の長さは約400m、上下2層造りで、上側は片側4車線の一般道路で、下側は各種レストランとオープンテラスが続く。ガラタ橋を渡り終わって振り返ると、「ガラタ塔」(写真157)が丘の上に悠然と建っているのが見える。金角湾内をフェリーがひっきりなしに走る。誠に活気がある。

さらに、ガラタ橋のたもとの広場(写真158)には非常に多くの人々が休憩し、何やら食べている。「サバ・サンドイッチ」である。川岸の船の中でサバを焼き、サンドイッチとして売っている。

ガラタ橋近く、イェニ・ジャーミーの横に「エジプシャン・バザール」(写真159)がある。赤レンガと化粧石でデザインされた外観は歴史を感じさせる。バザールの中の雑踏(写真160)は身動きできないほどで、極限に近い。日々、静かな環境の中で日常を送っている私にとって、この混雑と熱気は異次元の世界である。これが「トルコ的混沌」というものか…?

本日の夕食は旧市街の海辺のレストランにて。徒歩による観光地巡りが長かったのでお腹が空いた。取りあえず、スープとパンで食欲を満たす。前菜は「イカリング、白チーズの揚げもの」で非常にうまい。メインは焼魚(写真161)で、淡泊な味なので塩を少々振り、レモンを絞って食べると実にうまい。内臓や骨が全部とってあるのがいい。そして、夜遅くホテルに帰ってくる。今日は一日中イスタンブール観光をして疲れもあるので、風呂に入ってベッドに直行である。

 
     
F 世界遺産「イスタンブール観光」(その2)
  今日はトルコ旅行の最終日、午前9時15分、バスに乗ってイスタンブール観光に出かける。はじめに、ホテルから近い「ドルマバフチェ宮殿」に行く。宮殿前の「時計台」(写真162)が朝日に白く輝く。今日も天気がいい。

宮殿に入場する門(写真163)の前に立つ。見上げると細部まで精巧な装飾が施されており、この白亜の大理石の門はヨーロッパの宮殿のようである。宮殿に入ると手入れの行き届いた広い庭(写真164)が広がる。グリーンの芝生が目に鮮やかで気分が高まってくる。チューリップが咲き春爛漫…。広い庭の中央に大きな池(写真165)があり、まわりの木々が水面に映っている。季節は春、庭園内は花が咲き誇り、実に美しい。ライオンの親子(写真166)が芝生の上で休んでいる。暖かい日差しを受けて幸せそう…。

現在の「ドルマバフチェ宮殿」(写真167)はオスマントルコ朝の31代スルタン「アブデュルメジド」の命により、10数年の歳月をかけ1856年に完成したという。日本で言えばペリー来航の3年後、幕末の動乱にさしかかる頃である。

宮殿内部は誠に贅を尽くした豪華絢爛なもので、見る者を圧倒させる。ロシアのエルミタージュ美術館ほどではないが、ここはトルコの宮殿ではなく、明らかにヨーロッパの宮殿である。とりわけ見学の最後に訪れる吹き抜けの「儀式の間」は圧巻である。高さ36mの天井から巨大なシャンデリアがつり下げ750ものキャンドルが灯される。(残念ながら館内は写真撮影禁止)

ところで、何故、31代スルタンはこんな豪華な宮殿を造ろうとしたのか?
19世紀半ばにもなるとオスマントルコの国力は急速に衰え、様々な場面で西欧諸国との「立場の逆転」が明らかになってきた。危機感を抱いた31代スルタンは「ヨーロッパ的なるもの」を模範としてこの宮殿を造ったと言われる。しかし、国力が衰え国家財政が破綻に瀕している時期に(何を血迷ったか?)「贅を尽くした宮殿」を造った代償は大きい。この後、オスマントルコ帝国は急速に滅亡へと進む。もし、徳川家茂・慶喜が江戸に「ベルサイユ宮殿」を造ったら?トルコの歴史を見てみると、民族、国家の興亡が古代から現代まで連綿となく続いているのが分かる。

次に、旧市街に移動し、「トプカプ宮殿」観光をする。「トプカプ宮殿」入口となる「皇帝の門」(写真168)は堂々として人を威圧する。しかし、1478年に建てられた当時の皇帝の門は2階建てで今よりもっと規模が大きかったという。皇帝の門を入ると「第1庭園」(写真169)となり、チューリップをはじめカラフルな花が咲き乱れ、まさに春爛漫の雰囲気である。第1庭園の最後はトンガリ屋根の「送迎門」(写真170)となる。ここをくぐると「第2庭園」となり、トプカプ宮殿の中心部となる。

最初に「正義の塔(通称ハレムの塔)」(写真171)が建っている「ハレム」に入場する。ハレム内部は歴史的意味はあっても地味でありあまり印象に残らない。

1453年、イスタンブールを陥落させたメフメット2世は、トプカプ宮殿の建設に着工した。トプカプ宮殿は15世紀半ばから20世紀初頭にかけて、強大な権力を持っていたオスマントルコ帝国の支配者の居城となる。そして、1856年に「ドルマバフチェ宮殿」ができるまで、トプカプ宮殿はオスマン帝国の中心地として栄えた。この意味は大きい。オスマントルコ帝国の版図はウィーン付近から黒海、アラビア半島、そして北アフリカまで及び、各地から様々な富がもたらされた。さらに、トプカプ宮殿は歴史上一度も外敵の侵入を受けたことがない。それ故、400年にわたり栄華を極めたオスマン朝の財宝、秘宝の数々がこの宮殿に残っている。そこで、宝物館前の長い行列に並んで世紀の秘宝の数々を鑑賞する。(館内は全て写真撮影禁止)

トプカプ宮殿内には様々な独立した建物がある。ドーム屋根を頂く「図書館」(写真172)は17世紀初頭にスルタンになったアメフット3世の創建で、彼はオスマントルコに文化・芸術の薫り高き「チューリップ時代」を出現させた。長くせり出した庇(ひさし)とアーチ型の列柱廊が印象的な建物は「謁見の間」(写真173)で、時のスルタンが大臣からの報告や、外国の使節団等に接見する場所であったという。

第4庭園の南にある「レストラン」のすぐ上にあるテラスからの眺め(写真174)は衝撃的なほど美しかった。右にマルマラ海、正面にボスボラス海峡、左に金角湾、青い海に多数の船が行き交う。時間がない。ゆっくり感動している間もなく、急いで宮殿最奥にある「バーダット・キョシュキュ」(写真175)に行く。ここのテラスからの眺めも絶景である。金角湾から新市街が手に取るように見える。「バーダット・キョシュキュ」のテラスにある金色屋根の東屋「イフタリエ」(写真176)の人気が高い。ここはラマザン月に1日の断食を終えて夕刻の食事をする場所という。最後に、武器庫(写真177)を見学してトプカプ宮殿を後にする。

本日のランチはトプカプ宮殿に近い海辺のレストランにて、トルコ最後の食事を楽しむ。本日の「スープ」酸味がきいていてうまい。トルコの「バケット・パン」(写真178)は、どこで食べてもうまい。私はトルコの「パンとスープ」があれば取りあえず空腹は満たせる。本日のメイン料理は「ドネル・ケバブ」(写真179)。肉は悪くはないが、冷めているので美味しく感じない。もう一度電子レンジでチンすればgood.

昼食後、バスで新市街に移動する途中、何やら古い城壁のような物がアタチュルク大通りをまたいでいる。「ヴァレンス水道橋」(写真180)だという。コンスタンチィヌス帝の時代に建設がはじまり、ヴァレンス帝時代の378年に完成した水道橋で、市街地北のベオグラードの森からあの地下宮殿に水を運んだという。何と言う壮大な土木事業か?

イスタンブール観光の最後に世界有数の規模を誇る「軍事博物館」(写真181)を訪れる。庭に戦車や大砲が出迎えてくれる。館内は広く、様々な物が展示されているが、多数の巨大壁画がありトルコの歴史が臨場感を持って学べる。例えば、(恐らく)セルジュークトルコの大進撃(写真182)やオスマントルコによるコンスタンチィノープル陥落戦(写真183)など、見応えのあるリアルな戦闘場面が展開する。

大ホールで軍楽隊の生演奏(写真184)を聞く。行進しながら軍楽隊がホールに入場し、大音響で演奏がはじまる。軍楽隊の音楽は「兵士の勇気を鼓舞させる」演奏なので、全く単調で騒々しい。今の軍楽はオスマン朝の時代に発展したもので、軍楽隊の効果に驚いた各国がこの制度を取り入れたと言われている。士官達の教室(写真185)。面白いことに最前列左側に1席だけ空席がある。見学者(妻)が嬉々としてここに座り同じく左手を挙げて「ハイ、チーズ」…。
空港への帰路、旧市街の海岸通りの公園(写真186)ではおびただしい人達が公園バーベキューをしている。炭火焼きの煙はスモッグのように周囲をおおい、バスの中まで臭ってくる。しかも、海岸に沿ってバスが走っても延々と公園バーベキューは続く。日曜日の夕暮れ時、家族・友人達とバーベキューを楽しんでいる様子である。人、人、人、しかも皆さん若い。ガイドさんが言っていたが、「トルコ人の50%が30才以下」だと。若き"親日の国・トルコ"に幸あれ!と願いつつ帰国の飛行機に乗る。

 
     
G 一般情報
 
…ホテル…
◎カッパドキア・ケーブ・リゾート・アンド・スパ(英語)
http://www.cappadociacaveresortandspa.com/ppc/index.html
◎リッツ・カールトン・ホテル・イスタンブール(日本語)
http://www.ritzcarlton.com/ja/Properties/Istanbul/Default.htm

…トルコ観光…
◎トルコ政府観光局(日本語)
http://www.tourismturkey.jp/index.html
◎トルコの世界遺産(英語)
http://fp.thesalmons.org/lynn/wh-turkey.html

                                        (2013年6月 掲載)