@ 紺碧の海岸線が続く地中海のリゾート・ニース  
     
A アルルの古代遺跡とゴッホの苦悩  
     
B ローマ時代の水道橋と中世の城壁の都アヴィニョン  
     
C 絶景の眺めフルヴィエールの丘と美食の街リヨン  
     
D 古都ブールジュにあるサンテティエンヌ大聖堂  
     
E ロワールの古城と女城主の壮絶なるバトル  
     
F 孤島にそびえ立つモンサンミッシェル  
     
G 一般情報  
     
     
@ 紺碧の海岸線が続く地中海のリゾート・ニース
  ルックJTBのツアー「南仏プロバンスとモンサンミッシェル・ロワール古城8日間」(お手頃価格の旅)に妻と二人で参加してきた。成田発エールフランス利用で旅行代金が229900円、さらに、最終日パリでツアー一行と別れて4泊延泊して、パリ滞在も満喫してきた。延泊代金は1人1泊1万円。よって、国内外の空港税や延泊代金も含めて10泊12日間のフランス旅行代金が30万円以下で抑えられた。(現地での費用は別)

2009年6月29日12:00成田発のエールフランスのエアバスA330-200(写真1)に搭乗する。機内の座席配置(エコノミー)は横2-4-2の8列で、我々の席は窓側2席になっていた。ヨーロッパまでのフライトは12時間30分と長いので、妻と2人で気楽に窓側の席で過ごせるのはありがたい。さて、水平飛行の後の食事(写真2)は‥‥?前菜として胡麻風味のスモークサーモンとスモークツナ、野菜の取り合わせ。メインは2種類からの選択で、私は「鶏肉のソテー」を選択。ペンネパスタ、にんじん、ブロッコリーが添えられており、まずまずのお味。フランスパンとカマンベールチーズの相性は抜群で、エコノミーの機内食としては合格である。

食事の後は映画を見たり読書したり、仮眠したりしてパリまでのロングフライトを過ごす。それにしても狭いエコノミーでの12時間は長〜い。何回もトイレ休憩に行きストレッチをして体をほぐす。自分の座席で寝転がれるビジネスクラスが羨ましい。到着前の軽めの食事(写真3)は‥‥?フレッシュサラダ、パテのパイ皮包み、ハム、パスタサラダ、そして、チーズ、フルーツ盛り合わせ。さすが美食の国フランス、手抜きのない食事に満足する。

定刻より少し早く現地時間午後5時頃パリ・シャルルドゴール空港に到着。国内線に乗り換え、コートダジュール・ニース空港に出発する。夕陽に照らされた空(写真4)が実にきれい。これからはじまる旅に期待が高まり、嬉しさが込み上げてくる。しかし眠い。飛行機の中で1時間ばかり仮眠する。午後9時40分、ニース空港着。バスに乗り換えてカンヌのホテル「ホリデイ・イン・ガーデンコート・ルカネ」に到着する。現地時間午後11時、日本時間の朝7時なので、頭と体は徹夜したのと同じ状態である。シャワーを浴びてすぐに寝る。

目覚めの朝!。窓から外(写真5)を眺めると、雲1つない快晴に嬉しくなる。今日の午前中はフランス最大のビーチ・リゾートであるニースの市内観光をする。まず、ニース随一の高級住宅街がある「シミエ大通り」を上っていく。小高い丘に向かってプラタナスの並木が植えられ、概観の美しい高級マンションが続く。圧巻は昔の超高級ホテル「レジーナ」(写真6)であろう。今は分譲マンション(アパルトマン)になっているという。一体どんな金持ちが住んでいるのだろうか?住宅ではなく避寒のための別荘?どうでもいいことながら私には興味がある。レジーナを過ぎてすぐの所に古代ローマの円形闘技場跡とオリーブ畑に囲まれた「マティス美術館」(写真7)がある。外観のみ見学して本日の目玉であるビーチに行く。

6月下旬、初夏の陽光がコートダジュールの海岸線に降り注ぎ、ニースの海岸沿い、「プロムナード・デザングレ」(写真8)は光り輝いている。この海岸沿いには高級ホテルが連なり非常に華やかな雰囲気を醸し出している。第2次世界大戦前まで、ニースはヨーロッパ中の王侯貴族が避寒に訪れる高級社交場だった。ビーチに面した高級ホテルはプライベートビーチ(写真9)を所有し、パラソル、チェアー、レストラン付で、ゲストを迎えている。もちろん、パブリックビーチ(写真10)もあるが、残念ながら、ビーチは砂ではなく小石ばかり。さらに、パラソルもチェアーもなく、高級ホテルのプライベートビーチとの差は歴然としている。大金をはたいて海辺の高級ホテルに泊まってみるか?

プロムナード・デザングレでひときわ威容を誇る「ホテル・ネグレスコ」(写真11)は、まさに宮殿のホテルである。宿泊料金を調べてみたら、1泊1室スタンダード4.3万円〜、オーシャンビュー指定なら6.5万円(アップルワールド、7月20日以降の値段)空室あり。時間があればホテル・ネグレスコでランチか、コーヒーの1杯でも飲んで貴族の館の雰囲気を楽しみたいのであるが‥‥。全く時間がない。ツアーは忙しい。余談ながら、ホテル・ネグレスコの現オーナーは子供のいない高齢のおばあちゃんで、資産の引き受け手がいない、という。

プロムナード・デザングレ散策の後、外観が美しい「ニース美術館」(写真12)に行く。本来は「シャガール美術館」見学だったのであるが、火曜日休館のためニース美術館に変更。愛らしい女性の彫刻3点があったが、中でも、Tarnowsky作「Surprise」(写真13)は若い女性のはじらいが見事に表現されていて素晴らしい。

午前中の市内観光を終了してニース市内のレストランでランチをとる。前菜は大盛りになった「ニース風サラダ」(写真14)。これは4人分なので、各自取り分けて食べる。新鮮な生野菜とオリーブオイルの料理で日本人の舌によく合う。メインは魚料理(写真15)で、すずきのバジル、クリームソース煮、いためご飯、サフラン入り。まずまずのお味。デザートはアイスクリーム。1時間のランチタイムの後は早くも次の観光地「アルル」に向かって出発する。フランス最大のリゾート地ニース滞在が半日のみとは残念!

ニースからアルルまで約260q、バスで3時間半かかる。エアコンの入った車内では皆さんお昼ねタイムである。

 
     
A アルルの古代遺跡とゴッホの苦悩
  フランスの大河ローヌ川が地中海に注ぐプロバンス地方には古代ローマの遺跡が沢山ある。人口約5.5万人の小さな町アルルは紀元前1世紀、カエサルの時代にローマの植民地となり、1世紀、アウグストスによって開発が進められた。さらに、4世紀にはコンスタンティヌス帝がしばしば滞在し、「ガリアの小ローマ」と呼ばれるほど重要な町となった。よって、今でも多くのローマ遺跡が残り、世界中から観光客が訪れる。私もその中の1人。

長距離バスターミナルから歩いてアルル市内を見学する。耳の欠けたゴッホの銅像のある「夏の庭園」を通り過ぎて「古代劇場」(写真16)に行く。半円形の階段式座席が舞台を見下ろす古代劇場は紀元前1世紀に建設された。現在は数本の大理石の柱が残っているだけであるが、当時は柱の後ろに舞台の壁が高くそびえていたという。完成復元図を見せてもらったが、壮大な規模の劇場である。

古代劇場の隣に、世界遺産「アルルのローマ円形闘技場」(写真17)がある。紀元1世紀頃に建設された2層60のアーチからなるローマ時代の闘技場でほぼ完全な形で残されている。現在でも規模が大きいが、当時はさらに大きく3層まであったという。直径は最も広い所で136mあり、フランス最大規模である。収容人数は2万人。今でも闘牛場等の会場として利用されている。古代劇場にしても円形闘技場にしてもその規模の壮大さを見ると、古代ローマ帝国の富と権力と技術がいかにすごかったかが分かる。

次に、アルルの共和国広場(写真18)に行く。広場の中央には高いオベリスクが立ち上がり、正面は風格のある「市庁舎」そして、右側に世界遺産「サン・トロフィーム教会」(写真19)がある。サン・トロフィーム教会は中世の巡礼路にあり、多くの巡礼者が訪れたという。正面入り口の彫刻はロマネスク様式の傑作で精緻な彫刻が見事である。静かに教会に入る。教会内部の天井が意外と高く、室内はびっくりするほど涼しい。太陽が降り注ぐプロバンス地方は暑い。巡礼者にとって教会は天然のクーラーの役割をしたのであろう。我々もしばらく休む。アーメン‥‥。

アルルと画家ゴッホとの関係は深い。パリでの生活に心身ともに消耗したゴッホは南仏プロバンスの陽光溢れるアルルに移り住み、彼の画作は飛躍的な発展を遂げる。そんなゴッホゆかりの原風景をアルルに訪ねる。美術愛好家にはたまらない観光である。注:私はそれ程興味はないが、美術好きの妻は大乗り気である。

まず、アルル近郊にあるヴァン・ゴッホ橋(写真20)を訪れる。来て見るとごく普通の田舎の風景‥‥。しかし、アルル郊外の、のどかな風景がゴッホの手によって名画「アルルの跳ね橋」(写真21)に蘇る。次に、アルル市内のフォーロム広場(写真22)に行く。私はこういう広場が好きである。個人旅行なら必ずカフェで一休みするのであるが‥‥。写真を撮りまくり、ツアーに遅れないよう最後尾から追いかけていく。ここはゴッホの名作「夜のカフェ」(写真23)の場所であり、黄色で統一された「カフェ・ヴァン・ゴッグ」が今でも営業している。

約100年前、ヨーロッパで日本ブーム「ジャポニスム」が流行し、多くの芸術家たちが日本の美術・工芸品に影響を受けた。中でも、浮世絵を油絵で模写したゴッホは最も日本に傾倒した画家と言える。ゴッホ作「タンギー爺さん」(写真24)の背景には浮世絵が描かれ、ゴッホは日本をユートピアと思い描いたという。そんな日本びいきのゴッホであるが、彼の行く末は暗い。

ゴッホは著しい妄想に駆られ自分の耳を切断し、アルル市立病院(現:エスパス・ヴァン・ゴッホ)に入院する。病院の庭(写真25)は美しい花々が咲き乱れており、ゴッホは担当医の許可をもらって多数の作品を描く。病院の庭を描いたゴッホの作品に「アルルの療養院の庭」(写真26)がある。この作品を描いた翌年、1890年7月、ゴッホはピストル自殺をし、37歳で永眠する。

今夜のホテルはアルルの中心部周辺にある「メルキュール・アルル・カマルグ」(写真27)。屋外プールもありリゾートホテルの雰囲気がする。客室の窓からはアルルの中心街が遠望でき、ホテルの周囲は緑の森で囲まれている。なかなかいいホテルである。

本日の夕食は「野菜のパイ包み(写真28)」「牛肉の煮込みとライス」「チーズケーキ」。前菜以外はイマイチのお味で半分以上残す。夕食後はプールサイドのチェアーに横になり添乗員さんと旅の話を色々する。旅のプロである添乗員さんの話は非常に参考になる。夏のヨーロッパの日暮れは遅く、夜10時頃やっと日没になる。外が暗くなるとともにベッドに倒れこんで爆睡!

 
     
B ローマ時代の水道橋と中世の城壁の都アヴィニョン
  ツアー3日目の朝、そろそろ時差も解消しヨーロッパ時間に慣れてくる。さわやかな目覚めの朝、シンプルな朝食はいいのであるが、生野菜がないのが不満である。朝食の後はコーヒーカップを持ってプールサイドのチェアーに移動する。ここで、1人、涼しい朝の風を感じながら熱くてほろ苦いコーヒーを味わう。忙しいツアーであっても、見知らぬ外国の見知らぬホテルの朝を優雅に過ごしたい。

朝8:15アルルのホテルを出発し、9:00には世界遺産「ポン・デュ・ガール」に到着。ここに2000年も前に建てられたローマ時代の水道橋(写真29)がある。ポン・デュ・ガールは「ガール川にかかる橋」を意味しており、フランス南部、ニーム郊外のガール川の深い渓谷に巨大な石の橋がかかる。

この水道橋はアヴィニョンの東にある水源地ユゼスから50q離れた現在のニームまで水を引くために作られた。ポン・デュ・ガールは高さ49m、長さ275m、3層のアーチで構成された美しい姿(写真30)をしている。アーチの最上層が水路で、現在、最下層のアーチは道路として使われている。

最下層の橋を渡ってみると、この橋(写真31)の巨大さが分る。2000年も前に何故こんな巨大な橋を作ったのか?当時、ローマの都市ネマウスス(現ニーム)では人口が増え、大浴場などの公共施設で使う水が不足し、水源地ユゼスから水を引く必要に迫られた。水源地ユゼスからネマウススまでの距離は約50q、しかし、標高差はわずか12mしかない。50mにつき1.2pというわずかな勾配である。

水道は平らな地形に沿って大きく迂回した上に、ガール川を渡るために高さ49mもの巨大な橋を架ける必要があった。3層のアーチ構造は、強度を保ちながら少ない材料で橋を高くする合理的な設計で、古代ローマ人はわずか5年でポン・デュ・ガールを完成させたという。古代ローマ人、恐るべし!10:00ポン・デュ・ガール出発。

30分くらいで、ローヌ川のほとりの古都アヴィニョンに到着。バスは「サン・ベネゼ橋(アヴィニョン橋)」(写真32)付近で停車し、ツアー一行は歩いて城壁(写真33)の内部に入る。アヴィニョンはこの巨大な城壁で街全体が囲まれ、アヴィニョン歴史地区として世界遺産に登録されている。中世の一時期「法王のバビロン捕囚」といわれる時代(1309年〜1377年)に、ローマ法王がアヴィニョンに移り住んだことがある。68年の間に7人の法王が即位し、アヴィニョンはローマに代わるカトリックの中心として繁栄する。

そんなアヴィニョンの中心地「法王庁広場」(写真34)に行く。壁の彫刻が素晴らしい建物は1620年に建てられた造幣局である。「ノートルダム・デ・ドン大聖堂」(写真35)を見上げれば、プロバンスの強烈な太陽をうけて聖母マリア像が金色に輝いている。そして、「法王庁宮殿」(写真36)はまるで巨大な要塞である。壁の高さは50m、厚さは4m、そして、この外壁で囲まれた法王庁全体の面積は1万5000uもある。いざ、入場。

驚いたことに、今、宮殿内部では鉄パイプを組み立てて即席の観客席(写真37)を作っている最中である。ここは国際演劇フェスティバルのメイン会場になる。夏の演劇祭の時期にはアビニョンの町全体が劇場と化し、世界中から観光客が押し寄せるという。観光大国でもあるフランスは政策がうまい。歴史的遺産を活用し演劇祭、その他、イベントを開催することによって、毎年、膨大な数の観光客を呼び込む。日本も見習うべきところであろう。(注:ヨーロッパの春から秋は雨が少なく屋外でのイベントに問題はない。一方、日本は梅雨あり、夏の猛暑ありで、屋外イベントに適さない。気候条件の違いも考慮する必要がある。)

法王庁宮殿で一番大きな部屋である「大礼拝堂」に入る。法王庁宮殿はヨーロッパ最大のゴシック宮殿であるが、フランス革命の際に聖像など徹底的に破壊されてしまった。よって、内部はがらんとしていてつまらない。法王庁宮殿よりアヴィニョン歴史地区(写真38)を眺める。「歴史的遺産を手厚く保護し後世に残す」ということの大切さを実感する。

午前中に世界遺産を2つも訪れ、そろそろお腹が減ってきた。今日のランチはアヴィニョン城壁内の小奇麗なレストランにて。前菜はプロバンス風キッシュ(写真39)、メインはプロバンス風魚料理(写真40)、デザートはフルーツババロア、どの料理もおいしく、大変満足のいくランチだった。

 
     
C 絶景の眺めフルヴィエールの丘と美食の街リヨン
  昼食後、バスはローヌ川に沿ってひたすら北上し、リヨンに向かう。リヨンまで約230q、4時間のバスの旅である。皆さんお昼ねタイムであるが一部勉強家はガイドブックを読んで予習をしている。午後5時頃、リヨンに到着。リヨンはパリに次ぐフランス第2の都市で、中世より絹の町として知られヨーロッパでも有数の商業都市である。車窓からはパリに匹敵するような美しい街並み(写真41)が続く。

バスはソーヌ川を渡りフルヴィエールの丘を登っていく。丘の上には「ノートルダム・ド・フルヴィエールバジリカ聖堂」(写真42)が君臨している。この教会は比較的新しく1872年〜1896年にかけて造られたものである。豪華絢爛で外観も白くてピカピカ。私は非常に気に入った。聖堂の内部(写真43)に入ってみると、天井が高く、内装はこれまた豪華絢爛で威圧される。そして、各所にあるステンドグラスが美しい。光りと影と静寂。教会内部はやはり「祈り、思索」の場所である。ここも涼しい。ヨーロッパの重厚な教会は夏は天然のクーラーになることを実感する。

リヨンはヴォージュ山脈から発するソーヌ川とアルプス・ローヌ氷河を源とするローヌ川が合流するあたりに開けた町である。豊かな水に恵まれたリヨンはローマ時代より長い繁栄の歴史を持つ。富が集まり、人はグルメに集う。リヨンは「世界の美食の町」でもある。15世紀以降、定期市の開催や銀行の設置により経済発展を遂げたリヨンは、フランス・ルネッサンスの中心地となる。ソーヌ川西岸に広がるリヨンの旧市街はルネッサンス建築の集合体で世界遺産に登録されている。残念ながら時間がなく旧市街訪問はできなかったが、フルヴィエールの丘からのリヨン市街の絶景(写真44)を眺められたのは幸せである。

17:30リヨンのホテル「ベスト・ウエスタン・サフィール・リヨン」(写真45)に到着。コンパクトにまとまった機能的なホテルであるが、街の中の中級ホテルなのでレストラン以外これといった施設は何もない。19:00本日のディナー開始。前菜はロレーヌ風キッシュ(写真46)、メインはローストポーク(写真47)、デザートはハニーケーキ、まずまずのお味。

夏のヨーロッパの日暮れは遅い。夕食後、ツアー有志でリヨン中心街にある庶民的なレストラン「プジョン」(写真48)に繰り出す。リヨンの中心「ベルクール広場」の近くにレストランが集中しているところがあり、その中の1軒に入る。店内には誰もおらず、ほぼ全員、路上のアウトドア席に陣取って食事をしている。店内にはエアコンがなく暑い。夕暮れから夜にかけて、外では涼しい風が吹いてくるので、アウトドア席の方が断然快適である。適当に料理(写真49写真50)を注文し、旅の話題に華を咲かせる。リヨンの庶民的レストラン「プジョン」訪問はツアーでは味わえない貴重な体験だった。経験豊かな添乗員さんの功績大!(感謝)

 
     
D 古都ブールジュにあるサンテティエンヌ大聖堂
  7:45早くもホテルを出発。今日はリヨンから約300km離れたベリー地方の古都ブールジュへ向かう。車窓からはのどかな田舎の風景が延々と続く。見る限りフランスは大農業国である。11:30ブールジュに到着。まるで絵葉書のような風景(写真51)に出会い嬉しくなる。この近くのレストランに入りランチタイムをとる。

ブールジュはフランスのほぼ中央、ロワール川流域南東部にある人口約7万人の古都である。その小さな町の中心に足を踏み入れた瞬間、驚きのご対面があった。いきなり、世界遺産「サンテティエンヌ大聖堂」(写真52)の壮大な建物が現れたのである。これは凄い!圧倒的迫力、荘厳なる美、そして、広い庭園を埋め尽くす満開のバラ。しばらく口を開けて見つめる。

サンテティエンヌ大聖堂は1195年に創建され13世紀後半に完成したゴシック建築の大聖堂である。大聖堂正面(写真53)には5連の扉が連なり沢山の彫刻が施されている。大聖堂内部(写真54)に入る。天井が非常に高い。神は天高くにおり、神に近づくために教会の天井は可能な限り高くしなければならない。そのために、フライング・バットレス(広げたこうもりの羽)が2層に重なり、天井を高く築かせている。建築技術の革新が壮大な聖堂を誕生させた。聖堂内部にある多数のステンドグラス(写真55)が美しい。これらのステンドグラスは13世紀に作られたオリジナルだという。

サンテティエンヌ大聖堂の前にある庭園(写真56)がまた素晴らしい。この時期にヨーロッパを訪れると宮殿・教会・お城の回りは美しい花々で囲まれる。観光旅行にベストなシーズンである。地元の人や小学生、観光客が庭園のベンチに腰掛けてのんびりしている。しかし、我々は忙しい。1時間ちょっとの短い時間で大聖堂見学を終え、次にロワールの古城に向かう。

 
     
E ロワールの古城と女城主の壮絶なるバトル
  15:30ロワールの古城「シュノンソー城」着。緑が美しいプラタナスの並木道(写真57)を通り抜けていく。こういう長いエントランスを歩いていると、まだ見ぬ古城への期待感がどんどん高まっていく。ロワール地方は美しい小川、小さな丘、森の中の古城などフランスの美的要素がつまっており、世界遺産「シュリー・シュル・ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」に登録されている。

16世紀の創建以来19世紀まで、シュノンソー城は代々の城主が女性だったことから「6人の女の城」とも呼ばれる。シュノンソー城(写真58)はシェール川にかかる橋の上にまで増築されたお城で、川に浮かぶ船のような優美な姿をしている。

入り口のホール(写真59)は1515年に造られたもので、フランスルネッサンス期の装飾的彫刻が壁面に施されている。2代目城主「ディアーヌ・ド・ポアチィエ」は時の王アンリ2世から寵愛(王の愛人)を受け、王よりも20歳も年上でありながら、衰えることのない美貌で愛を独占したという。ディアーヌ・ド・ポアチィエの寝室(写真60)を見学する。ここは、アンリ2世のお気に入りの部屋だったという。自分の愛人にお城をプレゼントするとは‥‥。さすが、フランス国王!

しかし、アンリ2世の死後、正妻「カトリーヌ・ド・メディシス」は積年のうらみを晴らすべくディアーヌを城から追い出し、3代目城主となる。そして、ディアーヌの寝室に乗り込み自分の肖像画(写真61)を掲げる。壮絶な女のバトル!

橋の上のギャラリー(回廊:写真62)に行く。全長60m、幅6m、壮麗なダンスホールである。屋根をくり抜いた円窓は18ヶ所あり、円窓から外を眺めると、足の下にはシェール川が見える。ギャラリーが橋の上に出来ていることが分かる。

シュノンソー城の周りには2つの大きな庭園がある。1つはバラやラベンダーが咲き乱れているカトリーヌの庭園(写真63)で、もう1つが正妻「ディアーヌ」の庭園(写真64)である。広さで言えば「ディアーヌ」の庭園が勝るが、優美さではカトリーヌの庭園の勝ちである。ここにも女のバトルがある。カフェテリアで休憩したいところであるが時間がない。17:00シュノンソー城を出発し、今夜のホテルがあるツールへ向かう。

ツール郊外にあるホテル「レスキュリアル」(写真65)に到着。部屋にエアコンがない、という添乗員さんの事前説明に一同絶句。さらに、正面玄関はみすぼらしく期待はずれ。

バスルーム(写真66)は広くて清潔、いつものようにゆっくり風呂に入り、その後、夕食までベッドで休憩する。年をとるとこの夕食前のくつろぎの時間が何よりもありがたい。元気を回復して、気品のあるレストラン(写真67)でディナーを頂く。本日のメニューは「ジャガイモとトマトのスープ」「白身魚のソテー(写真68)」「牛乳プリン」どの料理もおいしく、大変良かった。

夕食後はホテルの裏庭(写真69)に出て散歩したり、ガーデンテラス席でツアーの皆さんとお喋りをして過ごす。夜になると窓から涼しい風が入ってきて、エアコンがなくても朝までぐっすり眠れた。結果的には非常にいいホテルであった。明日はいよいよ世界遺産「モンサンミッシェル」に行く。

 
     
F 孤島にそびえ立つモンサンミッシェル
  朝8時、ツールのホテルを出発し世界遺産「モンサンミッシェル」へ向かう。行けども行けども大平原が続き、手入れの良い牧草地、広大な畑が車窓に見える。フランスは大農業国で、食料自給率(2003年)は122%である。国内で完全自給でき、さらに輸出余力がある。一方、日本は40%。その差は歴然としている。しかし、日本は山と海に囲まれ平野部は人口密集地帯になっており農耕地が少ない。ハンディが大きい。山岳国家スイスも食料自給率は49%と低い。欧米先進国に比べて日本の食料自給率は低いと批判されるが、人口1人当たりの耕作面積も考える必要があるのでは?

11:30モンサンミッシェルに近いホテル・レストランでランチタイムをとる。店内(写真70)が非常に洗練されていて嬉しくなる。昼食は名物「オムレット・モンサンミッシェル」(写真71)。写真は4名分であるが非常に大きい。この前菜だけでお腹がいっぱいになりそうである。しかし、ナイフを入れて取り分けてみると、中身はフワフワのメレンゲで何も入っていない。これほどまずいオムレツ(写真72)は初めてである。大誤算!メインはポークのマッシュルームソース(写真73)、しょう油の味がしてGood。ご飯もまずまずの味。デザートはチョコレートムース。これもGood.

12:30レストラン出発。しばらくすると、前方に「モンサンミッシェル」が見えてきた。車内から歓声が上がり、皆さん一斉にカメラ、ビデオを構える。緑の牧草地に白い羊の群れが点在し、モンサンミッシェル(写真74)が徐々に近づいてくる。この期待感がいい。バスの運転手さんの好意で路上停車し、モンサンミッシェルのベストショットをカメラに収める。朝から空をおおっていた雨まじりの暗い雲は去り、空一面に青空が広がってきた。天高く聳える「モンサンミッシェル」(写真75)。神に感謝!

10世紀の伝説によると、モンサンミッシェル(聖ミカエルの山)は、アヴランシュ大司教であった聖オベールが、夢の中で大天使ミカエル(サン・ミッシェル)からお告げを聞いたことからはじまる。「ある山(トンベ)の頂に教会を建てよ」と。聖ミカエルのお告げを受け、オベールはこの地に小さな礼拝堂を建てた。8世紀のことである。10世紀には修道院の建設が本格的に開始され、その後、数世紀にわたって増改築が繰り返された。

いよいよ岩山に浮かぶモンサンミッシェルに入る。入口から大通り門をくぐってすぐ左側にレストラン「ラ・メール」(写真76)がある。モンサンミッシェル名物のオムレツはここのマダム・プラールの創作という。修道院の足下と城壁との間にモンサンミッシェルの小さな町がある。町は古い昔(12世紀)、修道院を訪れる巡礼者を迎えるために誕生した。巡礼者のための宿屋や居酒屋、それに聖ミカエル像などの記念品を売る売店等、今日の大通り(写真77)の賑わいとあまり変わらなかったという。モンサンミッシェルの町(大通り)を過ぎ、狭い階段を登って修道院に向かう。

モンサンミッシェルの見所は北面の3階建て2棟を含む「ラ・メルヴェイユ(驚異)」(写真78)であろう。山の狭い傾斜面に同じような傾斜を持った建物を建てるという難題は、用途によって大きさの違う部屋を幾つも作ることで解決され、「ラ・メルヴェイユ」は1211〜1228年のわずか17年間で完成された。長い階段を登ってやっと西側テラス(写真79)に着く。狭い山の上にしては意外に広い。ここからの大展望(写真80)が素晴らしい。

島の周りに広がる砂丘では1日に2度満潮と干潮が繰り返されるが、この湾の干満の差は15mにも達するという。よって、満潮時には非常に早い速さで潮が満ち、以前は島全体が水に囲まれた。このため、修道院を訪れようとした多くの巡礼者が水にのまれて命を落としたという。満ち潮の勢いの方が引き潮よりも強いため、海から運ばれてきた砂が入り江や海岸に堆積する。そして、貝殻片や川からの泥と混ざって灰色の泥土を形成する。不思議な風景である。「トンベレーヌの小島」(写真81)が彼方に見える。朝の日の出から日没まで西のテラスに座って変わりゆく風景を見てみたいものである。特に、大潮の時の迫り来る潮の流れを‥‥。

メルヴェイユ東棟3階に広々とした「修道士の食堂」(写真82)がある。修道士達は食事中一切会話せず、静かに食べる。何か言いたい時はジェスチャーで示す。メル・ヴェイユ西棟最上階にある「回廊と中庭」(写真83)。ここは修道士達の瞑想の場である。回廊の円柱(写真84)は人の高さで、肩の間隔よりやや広めの幅で並んでいる。巨大な空間を通って中庭に至った者にとって、このサイズは安心感を与えられる。修道士達はここでいつの日か天空に迎え容れられることを夢見ていたのであろう‥‥。

修道院付属教会の内部(写真85)に入る。ゴシック建築の技法に熟知した建築家の作で、天井は天に届くかのようである。教会内部に聖ミカエル像がある。また、メルヴェイユ西棟地階の「貯蔵庫」にも「聖ミカエル像(複製)」(写真86)がある。聖ミカエルは最期の審判を司り、巡礼者は死後、天国に行きたいためにここに来たという。明確な理由あり。ここにお参りに来て聖ミカエル像の土産物を買って故郷に帰れば、これであなたは天国に行ける!

中世の頃は多くの巡礼者を受け入れたモンサンミッシェルだが、18世紀には牢獄として使われた。19世紀に復元された「貨物昇降機」(写真87)はそのなごりで、大きな車輪の内側から囚人が歩いて動かす仕組みになっていた。大車輪の軸に巻きつけた綱で、修道院南側の入り口階段の斜面(写真88)に置かれた荷車を引っ張り上げるのである。死体収容所もあったという。修道院はフランス革命時に解散させられたが、牢獄としての役割は続き、様々な政治犯や反体制派の人々がこの島に送られた。モンサンミッシェルが恐くて暗い牢獄の役目を終えたのは1863年のことである。

やがて、中世芸術を再評価する動きが出て、モンサンミッシェルの比類ない景観美(写真89)が注目され、現在ではフランスで最も人気ある観光地となっている。 ‥‥パリ滞在記に続く‥‥

 
     
G 一般情報
  ―フランスの観光地―

◎ フランス政府観光局
http://jp.franceguide.com/

◎ 外務省:フランス共和国(各国・地域情報)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/france/index.html
日本の外務省のオフィシャルサイト

―フランスの世界遺産―

◎ NHK世界遺産(世界遺産ライブラリー)
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/library/index.html

◎ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/
「フランスの世界遺産」を記事検索すると、ギリシャの世界遺産についての詳しい説明が見れる。

―ニースの超高級ホテル―

◎ ホテル ネグレスコ
http://www.hotel-negresco-nice.com/index-gb.htm
プロムナード・デ・ザングレ通り沿いに位置するホテル。内装は豪華なシャンデリヤや美しい絵画で飾られ17世紀のフランス宮廷を想起させる。

◎ ホテル パレ ドゥ ラ メディテラネ
http://palais.concorde-hotels.com/en/
建物はフランスの文化遺産に指定されており、ロビーは宮殿のような空間がただよう。吹き抜けのアトリウムや300平米もの広さを誇るプール、カジノからレストランまで全てに贅が尽くされている。

                                        (2009年12月 掲載)